忘れてもらえなかった歌

 

 

「辛い時ほど笑っていたから

なにをそんなに我慢して笑ってるんだろう

って思ってたよ」

そう言われた滝野を演じる安田くんが、

やや間があってから

「そんなことはないよ」

と少し困ったように笑う。

わたしはどうしてもこの滝野亘に安田くんの

片鱗を見出さずに居られなかった。

 

 

心優しい友人のおかげで手に入れた

チケットで無事に「忘れてもらえないの歌」

東京公演を観劇することができた。

わたしが愛してやまない2年前の舞台

俺節」の福原さんが再び脚本を担当し、

安田くんとタッグを組むということで

この日をとても心待ちにしていた。

 

 

舞台は戦後の荒廃した東京。

生き延びる為に結成され即席ジャズバンド、

『tokyo  wonderful fly』の話。

 

床屋と物書きとジャズ好き、娼婦と

カフェのバーテンで、見よう見まねで

作られたこのバンド、結成当初は

メンバーは楽器もろくに弾けない、

楽譜も読めないほどであったのに、

ラジオから流れる曲で譜面を拾って

音に乗せていくことや少しずつ音が鳴っていく

管楽器を演奏する楽しさを覚えていき、

順風満帆に活動を続けていたが、

次第に滝野とバンドメンバーとの理解の

不一致により、結果バンドは解散してしまう。

 

 

たとえバンドの目指す方向性が違っても

生きる為には金が必要だからと、好きな音楽を

続けていく為にはどんな仕事も厭わない滝野と

音楽を純粋に愛するがゆえ、意にそぐわない

音は奏でたくない吉仲(中村蒼)、

敵国を相手にする仕事をしている為に

たまたま英語が少しわかるからと、

強みでもない他言語で歌わされ続けることに

不信感を抱く芦実(木竜)たちと

次第に心が離れていく様は見ていて

とても辛かった。

 

誰も間違っていない、考え方が違っただけ。

そうは思っていても、どうして誰も滝野の

ことを支えて理解してはくれなかったのだろうと思わずにいられなかった。

 

「みんなの為を思ってやったことが

一度も理解されたことはない」

と劇中で放つ滝野の一言に、いつだって

人の為に自己を犠牲にしてしまいがちな

安田くんを重ねて悲しくなってしまった。

この人がこんな思いを背負うのは

もう見たくない、舞台の中だけで十分だと。

そんな風に、役と演者を重ねて

みるのは観劇者として如何なものかと

思うのだが、この揺るぎない強い気持ちだけは

絶対に忘れたくなかった。

 

滝野亘は『お調子者』というキャラクター

として紹介されており、ジャズ仲間からは

一見金のことしか考えていない、

いつもおかしくもないことで笑っている

下卑た人物に見えたかもしれない。

 

しかし、戦争で家族を失っても尚、

がむしゃらに生き延びようと、

ヤクザにさえ下げたくもない頭を下げて

バンド存続の為に奔走し金を工面する

その心を、一体誰が

嘲笑することができただろう。

空っぽな体で絶望を詰め込んで生きるより

希望を持って生きようと人々を鼓舞する彼が

人一倍傷つきやすい繊細な心を持っているのは

疑いようもないことだった。

解散し二度と弾くはずが無い

からと、売りに出すはずだったのに、

ついぞ手放す事のなかった彼のギターの

重さを決して軽んじてはいけない。

 

 

買い取ったものの、借金を返済できずに

解体されてゆく想い出のカフェガルボの中で、

再び巡り会えたバンドメンバーたちと

作り上げて、しかし一度も日の目を浴びる

事のなかった『夜の墨染め』を磨り減った心で

嗚咽交じりに歌う滝野の最後のシーン。

単なる崩壊と別れだけでなく、

新たな旅の始まり、人生の再生の瞬間と捉え、わたしはこれからも彼の生き様を

追いかけたいと、錚々たる演者が並ぶ

真ん中で、笑顔で手を振り深々と頭を下げる

安田くんを見て改めて思った。

 

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落ちた先は薔薇色

 

薔薇を、花を愛でたいと思うのはSexyZoneに出会ってからだった。

 

忘れもしない10月の暮れ、わたしは友人と一緒にyoutubeで動画を見ていた。

もともとわたしは長らく嵐のヲタクをしていて、そのあとしばらくしてから関ジャニ∞に落ち、最近気になり出していたジャニーズWESTでも観ようと思い辿った先にあるリンクを押したら、たまたまSexyZoneの動画が目についたのだった。

 

その時の動画がなんだったかは忘れてしまったが、一目で恋に落ちたのが中島健人くんだった。

ちょうどその頃、ドロ刑のドラマをやっていたり、妹がデビュー当時ファンだったのでCDなども家に沢山あったし、落ちるきっかけなんかいくらでもあったのに、なぜそのタイミングで落ちたのかは自分でも未だによく分かっていない。なぜもっと早く落ちなかったのかは後の祭りだが、健人くんを一目見て、まず顔がいい、脚が長い、声が良い、歌が上手いと思い、調べていくうちにファンに対する愛情深さとそのブレないアイドル力に魅了され、その日からわたしと友人はSexyZoneの虜になってしまった。

 

一途という名前の割に気が多いのはもう笑うしかないのだが、掛け持ちをしていると好きな男が沢山いれば目の保養になるし、寄り添う場所が多い方がなにかと生きるのに都合が良かった。

だから特に好きなものが増えることには躊躇いはなかった。

 

SexyZoneを好きになる前の彼等に対するイメージは、「私のオキテ」や「Sexy Summerに雪が降る」などわけのわからないのにヲタク心をくすぐるトンチキな歌をよく歌っていて、勝利に関してはヒロムのオキニだから曲中に俳句を詠んだりしているんだと思っていた。

好きになってからはそのイメージがあながち間違いではなかったことに気づいて、こんな歌すら真面目に歌ってなんて健気なグループなんだと益々好きになった。(特殊な好きになり方すな)

 

薔薇がSexyZoneのモチーフなので、薔薇をみるたびに「セクシーローズだ」と思うようになったが、SexyZoneは花のような可愛さはあっても、刹那的な可憐さではなく、永久的な高潔さと美しさがそこにあると思った。

5人それぞれはとても個性的だが、ひとりひとりがよくファンを想ってくれているのが、あらゆる媒体を通して伝わってくる。

14枚目のシングル「ぎゅっと」の歌詞、

それでも夜は明けるけれど君にとってはツラいんだろうな」がとても好きで、こんなに沢山の悪事にまみれた社会の中で、5人の声はあまりにも優しく響いた。

羽毛のような温かさで来るものを拒まず、寄り添うように側に居てくれた。

SexyZoneの曲はとても耳に心地よい。

 

中島健人くんは、毎日毎日ジャニーズウェブの自身のブログ、KTTに日々のことを呟いて載せてくれる。

それは勿論自分の日々のルーティンワークでも、写真を好きな為でもあるのだが、「ファンへの愛を枯渇させない為」なのが本当に嬉しくて、どうやったらこの人に愛を返せるだろうかと、好きになってからすぐ思ったほどだった。

こんな人をずっと応援してきた人たちはどんなに幸せだったろう。

わたしもそのうちの一人になりたいと、健人くんに出会って早々にファンクラブへ入った。

なんて最高な人を好きになったんだろうと自分自身の男を見る目を誇りに思った。

健人くんを好きでいることで少しでも自分に自信を持って、好きなものを好きでいたいと胸を張って生きていけるようになったのだった。

 

こうしていろんなSexyZoneを摂取してきて改めて思うのは、薔薇を背に背負って生きていくには、デビューした頃には幼すぎた彼等は、どれだけ多くの辛いことがあったのだろうかということだった。

それでも、辛くても悲しくても自身にどんなに棘が刺さっても、我々に笑って手を差し出してくれるような優しい5人が居てくれるなら、その棘に一緒に刺さってしまっても構わないなと思った。

デビューしてから結構経つのに、未だにファンからセクシーちゃんと呼ばれている彼等があまりに可愛くてしょうがない。

なぜあんなに母性をくすぐるのか。

庇護欲が爆発してとどまることを知らない。

 

愛を投げた分の百億倍の愛で返ってくるSexyZoneのように、薔薇や花を愛でていると、手を掛けた分だけ綺麗に咲くことが似ていて、楽しいのだ。

 

薔薇は5本集まると、「あなたに出会えて心から嬉しい」という意味になるのだという。

そんなこと、SexyZoneを好きにならなければ知らなかった。

この5人が集まった奇跡に感謝と、へんなタイミングであれ、出会えたことに心から嬉しいと思う。

 

一緒に落ちた友人とはあれから毎日SexyZoneへの愛を語り合う日々を、時にお互い薔薇を送り合う日々を過ごしている。

 

彼等の行く先がずっと笑顔溢れるものであるように、少しでも5人の夢が叶うように、微力ながらその力になりたくて、文章を綴っている。

好きになってからとても日は浅く、語るにはあまりに未熟すぎるけれど、SexyZoneが好きだという溢れる愛を、文に留めておきたくてしょうがなかった。

そして、どうせ遅かれ早かれ皆、SexyZoneの虜になるのだからわたしのように遅咲きのセクシーでも、好きになったら即薔薇色の日々だよということを伝えたかった。(遅咲きのセクシー)

 

沢山の人に愛を届けてきたSexyZoneに、沢山の愛に溢れた未来がきますように。

毎日好きでいさせてくれてセクシーサンキュー🌹

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大人が読むべきムーミン

 

ムーミンパパの思い出があまりに秀逸すぎたのでまだ途中にもかかわらず、このタイミングで一筆執ってみた次第です。


いつかブログをやってみようと思いつつ、怠慢してしまっていたのだが、趣味の本読みの延長で、せっかくなら自分が好きなことなどを述べると同時に人に勧めて気に入ってくれたらなと思って重い腰をあげ漸くはじめてみました。

 

そのブログを書くきっかけを与えてくれたムーミンたち、実はめちゃくちゃに口が悪い。

こんなかわいい顔をしていながら「シラミのたまごめ!」「死んだ豚の昼寝の夢みたいなやつだ」などと平気な顔をして言う。

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(虚無的な表情もかわいいですね)

 

わたしは性根が腐ってるので、ムーミンたちがあまりに現実的でなく豪快な夢想家たちで、

かわいい顔をしてゴリゴリに自己中心的でありながら、そのくせ言ってることに何一つ間違いがなく自分に対して絶大な信頼を寄せているところにとても惹かれているわけです。

 

中でも、ムーミンシリーズ4作目に当たる今作、『ムーミンパパの思い出』

ムーミンパパが自分の生い立ちから今に至るまでを思い出しながら(時に話をめちゃめちゃ盛ったりしながら)綴った話で構成されているこの話がバリオモロなんです。f:id:mmpalf:20190716172638j:image

 

なんで4作目からわざわざ紹介してるのかというと、金曜ロードショーではターミネーターとかバイオハザードとかよく3話放送して翌週1話流したりして順番まじで謎なんですけどみたいなそんな感じです。(わけわからん)

 

とにかく、清々しいまでに人(というかムーミン谷の生き物)を軽んじてる様子は、「あ、こんな簡単な気持ちで生きてていいんだ…」思わせてくれるので小説の内容を一部抜粋、気づきを箇条書きにして紹介します。

 

☑︎恩義なんか捨てろ

実はその昔、捨て子だったパパ。捨て置かれた先はヘムレンさん経営するみなしごホーム。

おじぎをするときは尻尾を45度に立てろとか

5時には夕飯を食えだとか、そういう細かい

規則でがんじがらめなので、あまりの窮屈さに脱獄を決することに。

道中フレドリクソンとスナフキンのパパ(ヨクサル)やスニフのパパでフレドリクソンの甥(ロッドユール)に出逢い、船旅に出て、その道中で、モラン(悲しき化け物)に食われそうになった育ての親、ヘムレンさんを助けたムーミンパパたち

 

「またモランが戻ってくるといいが」

「そうでなけりゃ、モランじゃなくてもヘムレンを食べてしまってくれるものがくるといい。」 などと言う。

 

なんたる非情。 しつこくムーミンパパたちの世話を焼き続けるヘムレンさんがウザすぎていっそ化け物に食われてしまうことを願っている。 自分の手は下さず、不慮の事故での存在の消滅を願うとかバリ怖い。地獄先生ぬーべーのブキミちゃんバリにトラウマ。本当に恐ろしいのは人の心なのかよ。

そしてヨクサルに至っては「何しでかすか分からない、あのババア」呼ばわり。 いっそ清々しい。

結局そのヘムレンさんはみなしごホームのとは別のヘムレンさんなのですが、もはや彼等にとってはそんなことはどうでもよくて目の上のたんこぶ、モランのクソ餌になってほしい存在。

ヘムル一族は仕切りたがりの世話焼きたがりなので、イージーカムイージーゴー精神の彼等と気が合わないのはしょうがないんですけど、ここまで言う?

 

その証拠に、海辺で出会ったニブリング(吸盤があって普段は大人しいけどやたらに鼻が大きいとその鼻を噛みちぎる習性があるヤツ)に連れ去られたヘムレンさんをただ静観しており、結局助けるのに間に合わなかっただのなんだの口答えをして、その後、優雅に濃いめのコーヒーをキメている。

肝っ玉が座りすぎている。

人にしてもらった優しさなんて結局自己満足の独りよがりなのでは?恩義とか忠義とか感じなくてもいい気がしてきました。

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(※1番左側フレドリクソン、ムーミンの隣がロッドユール、1番右側ヨクサル)

 

☑︎無鉄砲さと無計画さが鬼

川を流れるままに出た一行ですが、気づいたら

大海に出ていました。そもそも羅針盤とかそんなものを持ち合わせていないのだから、いま自分たちがどこを彷徨ってるのかさえ知らないし、そんなことはどうでもいいらしい。

怠慢の権化、ヨクサルなんか

「どこへ行こうとぼくの知ったこっちゃないさ。じゃ、おやすみ」

などとのたまっている。テメェ自身が乗る船がどこへたどり着こうともはやどうでも良い、睡眠の方が大事なんですね。なぜ?

そもそもこの船の舵を切るのはフレドリクソンとムーミンパパぐらいなもんで、ロッドユールは一応飯係、掃除係(わりとパシリ)を担っているのですが、ヨクサルなんかただ惰眠を貪っているだけ。

さすがのムーミンパパも小説の中でヨクサルに苛立っているのですが、それをフレドリクソンに相談したところ

「ヨクサルのほうが案外いろいろと気を使っているのかもしれないよ」

などと肩を持っている。そんなわけねぇだろ、寝てるだけなんだから。わたしだったらヨクサルのこと、ぶん殴って荒波の藻屑にしてた。

 

とにかく一行が海で繰り広げる数多の冒険の数々は、計画的であればきっと経験できなかっただろうと思います。

冒険大好きだった子供時代のことが懐かしく思えてきました、あの頃の心って大人になっても覚えていたいですよね。

 

 

☑︎自分を信じきる強さと他を騙す狡猾さ

文中にはよく、ムーミンパパが自分のことを

才能に溢れた勇敢なる偉大な存在だと述べているのですが、(例:「ぼくは特別な星の元に生まれた、ひとりぼっちの避難民」など)

しきりに自分を褒めたがり自分の可能性を信じて疑わないその精神は、ナルシストとはまた違う気がします。

行動が伴っての根拠に満ちた自信とは、自分の行く先を照らす光なのでは…。まず自分を信じなくて誰が自分を信じるだろうか。

他人は他人、自分は自分。

 

あとここで語りたいのは他を騙す狡猾さについてですが、船旅に出る前に草地に置いていた船をどうやって川まで運んだかというと、ムーミンたちが馬鹿でかい竜のエドワードに、川の砂は柔らかくて最高だとかなんとか唆して、川に勢いよく入ってもらったその余波で溢れた水に乗って川に出るという魂胆でそれは実際とてもうまくいったのですが、酷いのは実はその川の砂底はめちゃめちゃ硬いしザラザラしていて痛いということ。

他者に平気で嘘をついて自分の目的を遂行しようとする、そういうずる賢さもたまには必要なのかもしれないですね、めちゃ迷惑だけど。

 

余談だが、人間怖いなと思ったのは、某フリマアプリでやり取りしていた人物に「発想が遅れてすいません」と非礼を詫びたところ、「ぜんぜん気にしないでください!お待ちしております!」と好感の持てる返事を寄越したにもかかわらず、受け取りの段階で「発想が遅すぎる、クソ」みたいな感想とともに星1の評価を投げて寄越してこられたことがあります。

もはや同一人物とは思えないほどの豹変ぶりに、何か他のものに取り憑かれたとしか考えられないのですがそれ以来そのアプリを使うたびに裏では人がどう思ってるか分からないなと疑心暗鬼を抱くようになったので、後遺症ヤバいです。

 

色々語ってきましたが、いろんな気づきをムーミンから得ることが多いので、実はこれは大人が読むべき本なのではと思っています。

訳者によって意味合いも結構変わってくるのが洋書の味ではありますが、こういった風刺的なことをかわいいイラスト入りで読める小説って貴重だなあと思うので是非いろんな人に読んでみていただきたいです。